書くということに関するSNSの弊害

価値観 コラム

私たちは、日々、何かしらの形で言葉に触れている。

話すことはもちろん、「書く」「聞く」といった形で言葉によるコミュニケーションを試みている。

だが、この3つを比べてみたときに圧倒的に割合が少ないのは「書く」によって言葉に触れている時間ではないだろうか?

この世の中を生きているほとんどの人は「書く」ということを1日に大量にこなすことはない。
それこそコピーライターや記者さんみたいな言葉の専門家や、小説家や論評価など書籍を記すことそのものが仕事になっている人じゃない限りは。

人にあったときに、あるいはどこかへ遊びに行ったときに「話す」「聞く」ということはほとんど自動的におこなうくせに、「書く」という行為は意識しないとなかなか実行に移せない。

なぜだろうか?

 

「書く」という行為の致命的な特徴

 

一つは「書く」という行為が他の二つに比べて1STEP多い動作だということだ。

「話す」「聞く」ということは対象さえいれば、自分の声帯を震わせて、もしくは鼓膜を震わせて音を発したり受け取ったりすることができる。つまり、自分が生来持っているものを使った完結型の行為だ。

それに対して「書く」には「書くための道具」を必要とする。
自分の頭を使って、言葉を紡ぎ出すという完結した行為の前に「道具を準備する」という1段階が加わるのだ。

オフラインで紙に書くのであればそれはシャーペンとか鉛筆だし、オンラインで執筆するのであればスマホやPCだったりする。ちなみにこのコラムもPCを通して書いていたりする。

 

この1STEPが簡単そうに見えて、そう簡単なものではない。
「書くのに道具を必要とする」ということは同時に「道具がなければ書けなくても」しょうがない。という思考に帰結しやすいからだ。

 

かく言う僕自身も、今でこそこうやってコラムを書いたり、記事を投稿したりしているけれど、文字を書くと言うことを始めたばかりの頃は腰に1トンのお守りがついているんじゃないかと言うくらい腰が重かった。

1記事書いてふうっ!となり、次の記事を書くのが1ヶ月後なんて言うこともあった。それくらい1STEPの差は大きい。

 

 

もう一つはそもそも、私たちにとって「書く」ということがそれほど重要なことだと認識していないからではないだろうか?前述のように、書くことには少なからずハードルはあるし、他二つに比べたら時間を要する行為だ。

現代のスピードや効率化を重視した行動が好まれる環境では、「書いている暇があったら直接伝えろ」「メールするくらいだったら電話しろ!」と言うような刹那的なコミュニケーションの方が(仮に勘違いだとしても)求められているのではないかと言うことである。

例えば、140文字の「書く」で自分が思っていることを表現する「Twitter」では、取り止めもないつぶやきがほとんどを占めており、自分の意見・考えどころか根拠もないただの言いがかりや、愚痴などで触れている。

それ自体に何ら意味のない呟きをすること自体が悪いことだとは言わない。
むしろTwitterという英単語が「つぶやく」という意味である以上、小さなことを瞬間で発信するのが根本思想だという点で土台となるものだろう。

だが、140文字以下というごく短い言葉で、そんなに強く思っていないことをなんとなく発するということに慣れてしまうあまり、つぶやきから「その人自身」、つまり、個人の考え、趣味嗜好、価値観などのオリジナルのものが見えなくなっているように思えてしょうがない。

十人十色という四字熟語があるが、これでは十人一色。全員Twitterの水色に染められてしまっているようなものだ。
大半の人は自分が刹那的なコミュニケーションに染められていることに気づく機会などないから、より深く、深く速度を重視し、次第に長い文章を書いたり、自分の意見を載せた文章を書いたりするということが少なくなる。

 

やがて「書かなくてもいいや」という考えに落ち着くようになってしまう。
だが、書くことには「話す」「聞く」ということとは違った魅力や効果がある、と私は考えている。

それらこそが、自分の意見を深め、発し、自分というものを積み上げていくで重要になっていくことだと思う。
今回は少し長くなってしまったので、この辺で。

次回のコラムではさらに「書く」に踏み込んでいきたい。

今日も、「タツミのコラム」に来てくださり、ありがとうございます。
もっと書こう、自分の意見を。